地名の由来となった「板橋」
■指定されている場所: 板橋区
板橋宿は、中山道(なかせんどう)の宿場町。江戸・日本橋を出て最初の宿場で、江戸四宿の一つとして栄えました。石神井川では、春には区内随一の1000 本を超える桜並木を楽しむことができます。
板橋宿は、「上宿(かみしゅく)」「仲宿(なかしゅく)」「平尾宿(ひらおしゅく)」の3つの宿場からなり、上宿と仲宿の境に、石神井川に架かる「板橋」という橋が架かっています。この板橋が、板橋村、また板橋宿の由来となりました。1889(明治22)年、板橋が「町名」となり、1932(昭和7)年、区名となりました。板橋は、(大正9)年に、木製からコンクリート製の橋に架けかえられました。現在の橋は、1972 年(昭和47)年の石神井川改修工事の際に架け替えられたものです。
縁切榎
江戸時代から、悪縁は切ってくれるが良縁は結んでくれるというので崇敬を集め、板橋宿の名所となっていました。元は大六天神の神木でした。皇女和宮の降嫁で板橋宿を通過する際、縁切では縁起が悪いとのことで、ここを迂回したという話が残っています。
蘭学者・蘭方医の高野長英は、幕府の政策を批判したために牢につながれましたが、小伝馬町牢屋敷が出火し、「切り放ち」が行われた際、長英は逃亡しました。幕府は全国に人相書と手配書をくまなく送りました。逃亡の途中、板橋宿に住んでいた門弟の一人、水村長民を訪ねたといわれています。
旧中山道
本陣には、参勤交代で通行した大名や、幕府の公用の武士、僧や公家などが休憩しました。屋敷の当主は、代々飯田新左衛門を名乗りました。
1889(明治22)年、市制・町村制が制定され、板橋町・上板橋村・志村・赤塚村の一町三村が誕生しました。板橋町役場が建設された跡は、現在「仲宿ふれあい広場」となっています。
板橋平尾宿の脇本陣である豊田家には、処刑までの間、近藤勇が監禁されました。また、江戸時代に見世物となったペルシャ産のラクダが、ここにとどまり話題となりました。
現在、屋敷跡には説明板が立っています。
板五米店
仲宿の「板五米店(いたごこめてん)」は、築100年の文化財としての価値の高い建物です。2019(令和元)年12 月に、観光スポット・カフェ「おむすびカフェ」としてリニューアルオープンしました。
いたばし観光センターに展示された明治初年の板橋の大型写真
ここでは、区内の名所・旧跡を解説するパネル展示や、観光パンフレットの配布・観光グッズの販売を行っています。いたばし観光ボランティア「もてなしたい」のガイドが、板橋区の自然、歴史、文化を紹介する観光ツアーのお手伝いをしています。