泉岳寺本堂
■指定されている場所: 港区
萬松山(ばんしょうざん)泉岳寺は、港区高輪にある曹洞宗の寺で、江戸三か寺の一つに数えられています。また三学寮の一つとして、諸国からの僧侶200 名近くが修行し、学問を修めていました。1612(慶長17)年、徳川家康は今川義元の菩提を弔うために、今川義元の孫といわれる門庵宗関(もんなんそうかん)和尚を招いて泉岳寺を創建しました。徳川家康(幼名、竹千代)は三河の松平氏に生まれ、人質として駿河にいる今川義元のもとへ送られ、そのもとで育てられました。当初、泉岳寺は外桜田の地(現在の虎ノ門付近)にありましたが、創建間もない1641(寛永18)年に起きた「寛永の大火」によって泉岳寺は焼失したため、その後、高輪に移転し、幕府は毛利家、浅野家、朽木(くつき)家、丹羽(にわ)家、水谷(みずのや)家の5大名に再建を命じました。
赤穂義士墓所
再建に携わったのがきっかけとなって、泉岳寺は浅野家の菩提寺となりました。1701(元禄14)年、播磨赤穂藩第3 代藩主・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)長矩(ながのり)は、江戸城中で吉良上野介(きらこうずけのすけ)に切りつけ、即日切腹を命じられました。その浅野内匠頭の墓と夫人・瑶泉院(ようぜんいん)の墓、そして主君の死の翌年、その仇を討った赤穂四十七士の墓が、この泉岳寺にあります。浅野長矩墓および赤穂義士墓は、国の史跡に指定されています。泉岳寺では毎年12 月と4 月に赤穂四十七士を供養するための赤穂義士祭が執り行われており、四十七士に扮した人々の義士行列が築地から日比谷通りを抜け、泉岳寺に到達すると祭りはピークを迎えます。
大内内蔵助良雄銅像
泉岳寺には、総門、中門、山門の3 つの門がありましたが、中門と山門のみが現存しています。中門は港区登録有形文化財に指定されています。中門をくぐると、大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか)銅像が現れます。内蔵助は赤穂藩の筆頭家老で、討ち入りの中心となった人物です。大石像が手にしているのは討ち入りの連判状です。
銅彫大蟠龍
現在の山門は、1832(天保3)年に再建されたもの。山門も港区登録有形文化財に指定されています。1 階には、「日本彫金の祖」と呼ばれる関義則の手になる龍の彫り物・銅彫大蟠龍(どうちょうだいばんりゅう)が天井に見られます。蟠龍とは、とぐろを巻いた龍のことです。2階には釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されています。「泉岳寺」の額は、書家・大野約庵の筆になります。
赤穂義士記念館
旧本堂は第二次世界大戦の空襲で焼失したため、1953(昭和28)年、鎌倉様式の瓦葺きの新本堂が再建されました。本尊は釈迦如来で、他に道元禅師・瑩山禅師(曹洞宗の宗祖)や秘仏・摩利支天(大石内蔵助の守り本尊)の像が納められています。本堂の右手には、討ち入りから300 年目となる2001(平成13)年に開館した赤穂義士記念館があり、義士たちの貴重な遺品が展示されています。本堂左手の講堂の2 階には、四十七義士の木像が展示されています。主税梅は、大石内蔵助の息子・主税が切腹した松平隠岐守邸(現在の三田にあるイタリア大使館内)に植えられていた梅を移植したものです。血染めの梅・血染めの石は、田村右京太夫邸(現在の新橋4 丁目)で切腹を遂げた浅野内匠頭の血が飛び散ったといわれる梅の木と石が当地に移されたものです。首洗い井戸は、吉良上野介の首級をこの井戸で洗い、浅野内匠頭の墓前に供えたことにちなんでいます。このように境内には赤穂義士ゆかりのものが多数見られます。
撮影協力:泉岳寺