旧光華殿(ビジターセンター) 写真提供 江戸東京たてもの園
■指定されている場所:小金井市
「江戸東京たてもの園」は、江戸時代から昭和にかけての、文化的価値の高い歴史的建造物を移築・復元・保存・展示する野外博物館です。1993(平成5)年、小金井公園内の約7ヘクタールの敷地に、江戸東京博物館の分館として開園しました。園内は、センターゾーン、西ゾーン、東ゾーンの三つに分かれており、文化的・歴史的価値の高い建造物が30棟、建ち並んでいます。伝統工芸の実演やミュージアムトークに加え、年間を通じて様々なイベントが催されています。
「センターゾーン」には、格式ある歴史的建造物が並んでいます。
「旧光華殿」は、 1940(昭和15)年に開催された紀元二千六百年記念式典の式殿のため、皇居外苑に造営された近代和風建築。式典後、現在の場所に移築され、国民錬成所(後の教学錬成所)、つまり教員の研修・講習施設となり、「光華殿」と呼ばれました。1954(昭和29)年、江戸東京たてもの園の前身である「武蔵野郷土館」が開館すると、光華殿は武蔵野郷土館の入口および展示室に転用されました。現在、江戸東京たてもの園ビジターセンターとして活用されています。
旧自証院霊屋(じしょういんおたまや)
撮影協力 江戸東京たてもの園
「旧自証院霊屋(じしょういんおたまや) 」は、石田三成のひ孫で、3代将軍徳川家光の側室となった自証院(お振りの方)を祀った、黒漆と極彩色で飾られた霊廟。1652(慶安5)年、自証院を弔うために娘の千代姫が建てた市ヶ谷の「自証寺」内に造られました。戦後解体され・倉庫に保存されていたものを、1995年(平成7)年、創建当初の姿に復元しました。寛永寺や増上寺には徳川将軍やその一族の壮麗な霊廟が幾つも並んでいましたが、その多くは戦災などで失われてしまったため、旧自証院霊屋は、今も残る貴重な霊廟建築です(東京都の有形文化財に指定されています)。
「高橋是清邸」は、総理大臣、大蔵大臣を歴任した高橋是清の邸宅の主屋部分を移築したもの。1902(明治35)年に赤坂に建てられた木造2階建の和風邸宅。建物全体には、柱や化粧材に良質の栂(つが)が使われています。当時貴重品だったガラスをふんだんに用いており、和風建築にガラス障子を用いた建物は日本建築史上、初期の事例の一つです。2階は是清の書斎や寝室となっています。1936(昭和11)年の2・26事件では、是清がこの2階にいるところを暗殺されました。
伊達家の門
撮影協力 江戸東京たてもの園
「伊達家の門」は、伊達侯爵家(旧宇和島藩伊達家)が白金三光町に建てた屋敷の総欅(けやき)造りの表門(おもてもん)。江戸時代の大名屋敷の門のように見えますが、大正時代に造られたものです。もし江戸時代だったなら、宇和島藩伊達家のような国持ち大名の表門には両側に番所を置くべきでしたが、大正時代のものなので昔の家格にこだわらず番所を片方にのみ置いています。
センターゾーンには他にも、大正時代の宗偏流の茶人・山岸宗住(会水)が造った茶室「会水庵」や、西川製糸の創業者・西川伊左衛門の和風邸宅「西川家別邸」があります。
「西ゾーン」には、江戸時代の茅茸き民家や大正末期から昭和中期にかけて建てられた様々な建築様式の住宅が集められています。
「常盤台写真場」は、板橋区の常盤台に建てられた写真館。常盤台は、先行して開発された田園調布を参考にしつつ、東武鉄道により分譲された郊外住宅地です。常盤台写真場は、モダンな文化住宅が立ち並ぶ中にあっても目立った存在でした。北側に大きなすりガラス窓を取ることにより間接光が「写場(撮影所)」に入るように工夫されています。このような手法は海外の画家のアトリエによく見られます。
「三井八郎右衞門邸」は、旧財閥・三井総領家の和風邸宅。麻布区今井町(現港区六本木)にあった敷地約1万3,500坪の豪華絢爛たる三井家の本家は、第二次世界大戦の空襲によって焼け落ちました。戦後、麻布笄町(こうがいちょう)に邸宅を再建しますが、1階の客間と食堂には京都の油小路三井邸の奥書院の部材を使用し、南東の和室には神奈川県大磯の城山荘にあった「望海床」という画室を移築しています。このように、各地の三井家関係施設を部分的に移した造りとなっています。
前川國男邸
撮影協力 江戸東京たてもの園
「前川國男邸」は、上野の東京文化会館や、東京都美術館を手がけた日本のモダニズム建築の巨匠・前川國男が1942(昭和17)年に建てた自邸。戦時の建築統制下で延べ床面積100㎡以下という制限を受け、建築資材も不足する中で建築されました。五寸勾配の大きな切妻屋根の下には、中央に棟持柱風の太い丸柱が立っていますが、これは電信柱を流用したものとも伝えられています。屋根は和風ですが、室内は開放感のある洋風のサロン(居間)で、左右には書斎と寝室の小部屋がシンメトリーに配置されています。サロンの南側は、全面がガラスの窓。ガラスの格子戸を用いたデザインは、アントニン・レーモンド設計の東京女子大学礼拝堂からヒントを得たものといわれています。金属が入手困難だったため、ガラス戸のレールはすべて木製でした。高さ4.5mの吹き抜けのあるサロンの上にはロフト風の2階があり、自邸が事務所も兼ねていた時期には、サロンのみならず、この2階にも製図台が置かれていました。
田園調布の家(大川邸)
撮影協力 江戸東京たてもの園
「田園調布の家(大川邸)」は、田園調布に建てられた大正期の洋風郊外住宅(設計・三井道男)。屋根は和風の寄せ棟造ですが、外壁は洋風のドイツ下見板張りで、テラスにはパーゴラ(つる棚)が設けられた和洋折衷の建築です。当時としては珍しいツーバイフォー工法で、建材は米国からの輸入品が用いられました。
「綱島家」は、世田谷区岡本の国分寺崖線(がいせん)と呼ばれる段丘崖(だんきゅうがい)にあった江戸時代中期の農家。
「小出邸」は、日本の近代建築運動の先駆けとなった「分離派」の建築家・堀口捨己(すてみ)設計による住宅。ピラミッドのような形の大屋根に横から突き刺さるような軒の造形や、室内全体が直線で構成された抽象画のような応接室のデザインは、オランダのモダニズム運動「デ・スティル」の影響が現れているといわれています(デ・スティルの一員には、画家のモンドリアンがいます)。
デ・ラランデ邸
撮影協力 江戸東京たてもの園
「西ゾーン」には、気象学者・物理学者の北尾次郎が自邸として設計したと伝えられ、後にドイツ人建築家ゲオルグ・デ・ラランデが大規模に増築した「デ・ラランデ邸」や、元々は奄美大島に建てられた高倉形式の穀物倉「奄美の高倉」、江戸時代後期に建てられた多摩郡野崎村(現・三鷹市野崎)の農家「吉野家」、「八王子千人同心組頭の家」といった建物も並んでいます。
「東ゾーン」は、レトロな下町風情を再現した昔の商店や銭湯が並ぶ区画です。
鍵屋
撮影協力 江戸東京たてもの園
「鍵屋」は、1856(安政3)年に、酒問屋として建てられたと伝えられる庶民的な居酒屋。江戸時代は平屋として造られましたが、大正時代初期に2階部分が増築されました。軒から突き出た腕木に庇(ひさし)を支える「出桁(だしげた)」が乗った「出桁造り」という形式の建物です。
子宝湯
撮影協力 江戸東京たてもの園
「子宝湯」は、1929(昭和4)年竣工の、足立区千住元町にあった「宮造り」という寺社建築を思わせるぜいたくな造りの銭湯です。玄関は神社仏閣を思わせる大きく曲線を描いた唐破風(からはふ)の屋根で、その下には七福神の彫刻が施されています。脱衣場は天井が高く開放的であり、また昭和30年代の銭湯の様子を再現しているので、「入浴料大人30円」の表示が掲げられています。タイル画は、雅号を「章仙」というタイル絵師の石田庄太郎によって描かれました(東京の銭湯のタイル画の大半の作者です)。
武居三省堂(左)、花市生花店(右)
撮影協力 江戸東京たてもの園
「武居三省堂」は、神田にあった看板建築の文房具屋。看板建築とは、正面を銅板やモルタル、タイルなど耐火性の建材で仕上げ、正面外観が一枚看板のように装飾された商店建築のことをいいます。
万世橋交番
撮影協力 江戸東京たてもの園
東ゾーンには他にも、醤油、味噌、酒等を販売していた出桁造りの「小寺醤油店」、明治初期に文京区向丘に建てられた「仕立屋」、神田にあった看板建築の花屋「花市生花店」、新富町にあった正面が銅板張りの看板建築「植村邸」、神田神保町にあった荒物屋「丸二商店」、洋風の列柱と和風瓦葺き屋根を組み合わせた看板建築の化粧品店「村上精華堂」、出桁造りの和傘問屋の「川野商店」、港区白金台にあった木造3階建の乾物屋「大和屋本店」、青梅市西分町の青梅街道沿いにあった旅館「万徳旅館」など多彩な店舗建築が目白押しです。さらに、江戸時代の豪農であった「天明家」、万世橋のたもとにあったレンガ造の「万世橋交番」などもあります。
江戸東京たてもの園には、建物以外にも、あきる野市で発見された飛鳥時代の「瀬戸岡1号墳」、寛永寺の「灯籠(とうろう)」、皇居内旧本丸跡にあって正午を知らせていた「午砲(ごほう)」、皇居正門石橋に設置されていた「飾電燈」、「都電7500形」の車両、上野消防署(旧下谷消防署)の「望楼」(火の見櫓の現代版)といった屋外展示物もあります。