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 地域資源紹介

服飾製品

服飾製品

■指定されている場所:八王子市

八王子の織物の歴史は古く、織物の取引が盛んでした。また「桑都(そうと)」、つまり、絹の生糸を得るためにカイコの餌となる桑が広く植えられていた街と呼ばれるほど、八王子では生糸の生産が盛んでした。

江戸時代の八王子の織物

1590(天正18)年に八王子宿が開かれ、同時期に八王子に市(いち)が立ちましたが、当初から絹織物の取引を行なう「紬座(つむぎざ)」があったと伝えられています(市には紬座の他に、穀物座、紙座、塩座のように商品ごとに売り買いする場所が定められていました)。江戸時代に入ると、幕府は多摩地域の治安維持のために八王子に「千人同心」を置きました(現在も、八王子には「千人町」という町名が残っています)。千人同心は、戦時や警護の時には武士として働きますが、普段は畑仕事やその他の仕事をしていました。千人同心になった者の中には滅亡した武田氏の家臣も多く、彼らが甲斐(かい)から移り住んで来た際に、甲府の甲斐絹という織物の技法も携えてきました。幕府は、生活が楽ではなかった千人同心たちのために、一般には禁じていた絹関係の売買を特別に許可しました。こうして八王子は絹織物の売買や生産が行われ、江戸時代の武蔵野の名産として「瀧山紬(たきやまつむぎ)」「横山縞紬(しまつむぎ)」が知られるまでになりました。


明治時代〜昭和初期の八王子織物

服飾製品
手織体験

八王子で本格的に絹織物の生産が増えたのは明治時代以降です。横浜港が開港され、日本の生糸が横浜から欧米へ輸出されるようになると、生糸が日本の総輸出額の40~50%を占めるようになり、日本の近代化に大いに貢献しました。八王子は関東周辺、多摩地域の生糸の集積地であり、生糸の一大産地であった群馬から横浜まで通じていた「絹の道」の中継地でした。八王子では国内向けの織物の生産者が増えていき、1874(明治7)年には、八王子駅織物会所が、1899年(明治32)には、八王子織物同業組合(現、八王子織物工業組合)が設立されました。また、1887(明治20)年には、織物の品質向上のため「八王子織物染色講習所」が設立されました(後の都立八王子工業高等学校、現在の都立八王子桑志高校)。明治30年代の政府統計の全国織物産地の売上高の順位は、京都(西陣)、桐生に次いで、八王子が全国第3位でした。明治時代から大正時代にかけては、八王子は男物の着物地の生産が中心でしたが、1929(昭和4)年、女物の 「多摩結城」が開発されました。1945(昭和20)年、第二次世界大戦の八王子空襲によって八王子の 9割が焼け、織物工場も大打撃を受けましたが、戦後、織物工業は廃墟の中から見事に復興を遂げました。


多摩織

服飾製品
多摩織

熟練した職人の手作業によって作り出される八王子の絹織物「多摩織」が、1980(昭和55)年に国の伝統的工芸品に、1982(昭和57)年に東京都の伝統工芸品に指定されました。多摩織には、「お召織(めしおり)」、「紬織(つむぎおり)」、「風通織(ふうつうおり)」、「変り綴(かわりつづれ)」、「綟り織(もじりおり)」の5種類の織り方があります。「お召織」は、表面に皺(しぼ)と呼ばれる細かいシワがあるのが特徴で、多摩織を代表する織り方です。「紬織」は、微妙な凹凸が生み出す風合いが特徴です。「風通織」は表・裏で2枚重ねの異なる色の織地が模様を作り出します。「変り綴」は、多色の緯糸(ぬきいと)から絵のように複雑な模様を生じさせます。「綟り織」は糸と糸の間に隙間があり、レースのような透明感が特徴です。羽織や袴(はかま)、さらにはネクタイなど様々な製品が多摩織を使って作られています。多摩織の伝統的な柄はシンプルな模様が多く、色も落ち着いたものが一般的です。多摩織は軽くてシワになりにくく、紡ぎ糸の素朴な手触りを持つのが特徴です。


戦後の動向

昭和30年代、八王子はネクタイ地の一大産地となり、生産高は全国の約6割を占めるまでに成長しました。現在では時代の移り変わりに応じて、着物だけでなく、ニットネクタイマフラーストールなど様々な繊維製品を創り出しています。

写真提供 八王子織物工業組合

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