■指定されている場所:墨田区
「アパレル」(apparel)とは、英語で「衣服」を意味します。衣服を作るには、製糸、紡績、撚糸、織物、ニット、レース、染色などの繊維工業に加え、ボタン、針、ピン、ホック、ファスナーなどの付属品の製造・流通に関わる産業が関係しています。本所、つまり現在の墨田区南部には、江戸時代からメリヤス産業が誕生していました。明治時代には、この地域にメリヤス工場が次々と建設されました。現在に至るまでその歴史が引き継がれ、墨田区はアパレル産業の盛んな地域です。
江戸時代、本所(現在の墨田区南部)には、大名の下屋敷や、徳川幕府の直属の家臣である旗本・御家人たちの住まいがありました。それら旗本・御家人、また浪人たちは質素な生活をしており、時代劇では内職として傘張りをしている姿がよく描かれますが、実は襦袢(じゅばん)や股引(ももひき)といった手編み仕事にも携わっていました。幕末に西洋式の軍制が取り入れられると、手袋や靴下の需要が増えました。明治維新となり、失業した武士たちの中には、それまでの内職の経験を活かして、メリヤス業に転じる者が大勢いました。初期の頃は大名屋敷の幾つかもメリヤス工場に姿を変えました。ちなみに、「メリヤス」とは、「靴下」を意味するポルトガル語のmeias メイアス、ないしはスペイン語のmedias メディアスがなまったものです。編物の主力が外衣(アウター)になると、メリヤスではなくニットという言葉が用いられるようになります。
日本初の機械編みは、1870(明治3)年に、著名な実業家・西村勝三が米国からメリヤス機械(小丸靴下編機)を購入し、東京・築地で靴下製造を開始したのが始まりです。その後、本所に小丸機による靴下の製造工場が数多く誕生し、本所はメリヤス産業の発祥の地と言われるほどになりました。1890(明治23)年に制定された陸軍被服廠條例のもとで、軍服を製造する官営の工場である「被服廠(ひふくしょう)」も本所に設置されました。軍用のメリヤスの需要は、西南戦争、日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦といった戦争が始まるごとに増加し、戦争の終結と共に需要が減少したため、明治時代の繊維業界は浮き沈みの繰り返しでした。洋装の普及によって、メリヤス製品の需要は大いに伸びていきましたが、1923(大正12)年、関東大震災でメリヤス産業は大打撃を受けました。メリヤス業者1583人のうち1172人が被害に遭い、焼失した機械は約9860台という状況でした。やがて、本所地区の工場は震災からの復興を遂げますが、第二次世界大戦の統制を受けて、企業数は統合されて減少し、生産高も縮小しました。1945(昭和20)年の大空襲によって本所地区は壊滅状態に陥りました。こうした幾つもの困難を乗り越え、その度に再起してきました。
戦後、しばらくの間は繊維業界に対する配給統制や価格統制、設備統制が続いていましたが、1950(昭和25)年頃までにすべて撤廃されました。1950年に勃発した朝鮮戦争によって、軍服や毛布、テント地などの需要が高まり、 「糸へん景気」(「繊維」、「紡績」といった糸へんの付く漢字の業種のこと)」が起こりました。1960年代の高度経済成長期には、さらに墨田区内に繊維関連の工場が増えていきます。やがて海外からの安価な製品が大量に日本に入ってくる時代が訪れます。また地価が高いことや土地が狭いこと、地方と比べて人件費が高くつくことから、地方や海外に生産の場が移っていきます。
工業用ロックミシン
インクジェットプリンター
デジタル刺繍機
墨田区では長年培ってきた高い技術を用いて、多くの企業が現在も活発にアパレル製品の生産を続けています。「ものづくりのまち」として発展してきた墨田区では、その技術を活かした新商品を開発し、ブランド化する試みが進められています。例えば、2011(平成23)年、墨田区のファッションメーカー4社が「意気」を受け継いだ粋な男たちによるファクトリーブランド「IKIJI(イキジ)」を立ち上げました。カットソー、ニット、革小物、布帛(ふはく・織物の生地のこと)における各社の強みを活かして商品を展開し、海外からも高い評価を受けています。
撮影協力 株式会社小倉メリヤス製造所「nuuieeものづくりシェアファクトリー」
生地サンプル