樫立の場踊・手踊
■指定されている場所:八丈町
樫立(かしたて)とは、八丈島の三原山の南西方向の山麓にある集落のことです。1950年代に八丈島の5つの村が1つの町(八丈町)に統合されるまでは、「樫立村」という名の村がありました。この樫立に伝わる「樫立の場踊(ばおどり)」および「樫立の手踊(ておどり)」は、東京都無形民俗文化財に指定されている郷土芸能です。八丈島との行き来が容易でなかった江戸時代は、5つの村ごとに独自の歌や踊りが発展していきました。
■場踊
「場踊」は「婆踊」(年寄りの踊り)とも書き、また「昔踊(むかしおどり)」とも呼ばれ、雅趣に富み、奥行きの深い、味わい豊かな踊りです。江戸時代、陰暦の盆(8月15日)と月見(9月13日)の日に、江戸時代初期から中期にかけて流行した風流歌に合わせて踊るという風習に起源を持ちます。かつては老若男女が集落の広場に集まって円陣を作り、中央に菓子や果物を置いて踊り、疲れたら一休みして菓子を食べ、それからまた踊りました。永久保満著『八丈島誌』(昭和12年発行)によれば、「唄は踊り子が皆で唄ひ、歌ふ時は、殆ど聞き分けられない程、引伸ばし静かに悠長に唄ふ」とあり、かつては踊り手全員が歌っていました。現在では1人の歌い手が、伴奏なしでゆっくりとしたテンポで歌い、踊り手たちはそれに合わせて踊ります。曲目には、「松原」、「江島踊り」、「鵜(う)の鳥」、「お菊がお茶」、「走り舟」、「向ひの山」、「清十郎」、「二十が若さ」、「又七郎殿」、「思案橋」、「やっこらさ」、「十七」の12種類があります(文献によって歌の数や曲名に違いがあります)。
■手踊
「手踊」は、江戸時代の流人や漂流者、御用船の乗組員たちが、自分たちの故郷を偲んで自分の地元の歌や踊りを八丈島の人々に披露し伝えたものを盆踊りのために八丈島風につづり合わせたのが始まりです。全国の民謡のオンパレードのようで変化に富んでいます。横1列か2列に並んだ老若男女の踊り手が、前後に動いたり回ったりしながら手拍子を打ち、1人の歌い手の歌に合わせて踊り、歌の合間にはやし言葉や合いの手を入れます。手踊は場踊よりも振付けが大きくて動きも早いため、かつては「若者の踊り」とされていました。盆や月見の際に広場で、場踊の後に踊りました。
■場踊・手踊を伝える活動
江戸時代に盛んだった場踊、手踊は次第に衰微し、明治・大正・昭和初期を通して細々と受け継がれていました。1960(昭和35)年に、樫立の場踊・手踊が東京都無形民俗文化財に指定されると、前後して「樫立踊り保存会」が発足し、現在に至るまで樫立の場踊および手踊を保存・継承する活動に励んでいます。保存会のメンバーは定期的に樫立にある「服部屋敷」(江戸時代に幕府の御用船を預かる船奉行の服部家の屋敷跡)で、八丈島名産の黄八丈を着て、樫立の手踊を公開しています。ここで披露される手踊は、「あいこ節」(宮崎)、「藤次郎甚句(じんく)」(栃木)、「平潟(ひらかた)節」(茨城)、「平潟くづし」(千葉)、「かんとう屋」(神奈川)、「伊勢音頭」(三重)、「とのさ」(京都)、「おけさ」(新潟)、「土佐くどき」(高知)、「やりくどき」(鹿児島)、「好比(こうひ)の節」(東京)、「芸州節」(広島)の12曲からなります。また、島の内外で開かれる伝統芸能のイベントには、次世代への担い手となる子供たちも加わって積極的に参加し、八丈島の伝統文化を多くの人に伝えています。