赤門(本郷通り側)
■指定されている場所:文京区
江戸時代初期、東京大学本郷キャンパスの敷地には、加賀藩前田家の下屋敷がありました。1657年の明暦の大火により大手町の上屋敷が焼失すると、本郷の下屋敷が上屋敷となりました。屋敷の庭園の池が、大学構内に今も残る「育徳園心字池」、通称「三四郎池」です。
加賀藩の藩祖である前田利家は、豊臣秀吉の下では五大老の一人とされ、秀吉の息子の秀頼の後見人ともなりました。秀吉の死後、徳川家康と対立したものの、跡を継いだ息子の利長は、家康と和解しその傘下に入りました。やがて関ヶ原の戦いの功績により、利長には加賀119万石余が与えられ、日本最大の大名となります。その跡を継いだ代々の前田家藩主たちは、徳川将軍家の娘と縁組を結び、徳川家との協力関係を強化しました。
東京大学の「赤門」は、1827年、加賀前田家13代・前田斉泰(なりやす)が、徳川幕府第11代将軍家斉(いえなり)の娘・溶姫(やすひめ、ようひめ)を正室として迎えるに際して、姫君のために建てた「御守殿(ごしゅでん)」という屋敷の表門(おもてもん、正門のこと)でした。江戸時代後期の加賀藩上屋敷の御殿は、全体がおよそ1万3,000坪でしたが、御守殿はその中の約5,200坪を占めるほど大規模なものでした。将軍の娘が大名家に輿入れ(こしいれ)した際には、その姫君の御殿の表門は慣習として赤く塗られたため、江戸には「赤門」が幾つもありました。歌川広重作『名所江戸百景』の中には、佐賀藩鍋島家の赤門や、彦根藩井伊家の赤門が描かれた浮世絵が見られます。赤門は、仮に焼失した場合は再建を許されず、また焼失を許したとなれば将軍家に対する忠誠の欠如とみなされたため、加賀藩では「加賀鳶(かがとび)」という消防団が組織されて赤門を守っていました。江戸の各地にあった赤門は、姫君が亡くなると直ちに御主殿と共に取り壊されたため、その数は減っていきました。加賀藩の赤門は、明治元年まで溶姫が存命だっために破却されずに残った貴重な存在です。ちなみに、藩主が用いた上屋敷表門である「大御門」が現在の本郷通り沿いの赤門の北付近にありましたが、現存していません(現在の東京大学正門は、築地本願寺などを手がけた建築家・伊東忠太の設計によるもので明治45年の竣工です)。
この赤門の様式は、「三間薬医門(さんげんやくいもん)」と言います。薬医門は、平屋の門の中では最も格式が高い門で、外側の本柱(主柱)2本、内側の控柱2本の4本柱で屋根を支える丈夫な構造です。加賀藩の赤門の場合、本柱が4本あってその間が三つあるため「三間」薬医門と呼ばれます。その左右には唐破風造(からはふづくり)の離番所(はなればんしょ)が付いています。門の造りは官位や石高によって異なりましたが、藩主の斉泰の使っていた上屋敷表門の方が、格式の低い様式であり、徳川家と前田家の身分の違いを示すものでした。
赤門の屋根は切妻造(きりづまづくり)、本瓦葺(ほんかわらぶき)です。本瓦とは、半円筒形の丸瓦と、平たい長方形の平瓦を交互に並べたものです。瓦の紋に関して言えば、門の最上段にある「大棟」の瓦には徳川家の「三葉葵」紋、軒先には前田家の「梅鉢紋」、鬼瓦と袖塀には東京大学の「學」と巴紋(水が渦巻いている模様なので火除けとしてよく用いられた)があり、修理工事の時期などの理由でいくつか種類があります。
「御主殿」とは、将軍の娘で官位が三位以上の者に輿入れした場合の屋敷の呼び方です。もし、四位以下の者のところに輿入れした場合は「御住居(おすまい)」と呼ばれました。前田斉泰は、溶姫と結婚した時は四位でしたが、1855年に権中納言に任ぜられると、正二位となります。それゆえ、赤門は1855年以前は「御住居門」と呼ばれましたが、それ以降は「御主殿門」と呼ばれました。こうした細かな違いは、文献の年代を特定する助けになります。ちなみに、御主殿も御住居も、住居だけでなく、姫本人の呼び名としても用いられました。
明治元年に、溶姫は戦禍を避けるため金沢に移転しました。移転のすぐ後に、本郷春木町の火事によって加賀藩の御殿や溶姫御殿の御主殿は、全焼してしまいました。しかし、少し離れていた赤門は焼け残りました。その数ヶ月後に、溶姫は金沢で享年56歳の生涯を閉じました。
本郷の加賀藩邸跡は荒廃し、広大な草地となり多数の狐が住んでいたといいます。明治維新後、ここは文部省用地となり、「東京医学校」が移ってきました。東京医学校は、後に、「東京大学」、「帝国大学」、「東京帝国大学」、そして再び「東京大学」と名称を変えました。赤門は大学のシンボル的存在となり、東京の名所として戦前の絵葉書の題材となってきました。
鬼瓦の「學」の紋
昭和20年の東京大空襲で赤門も延焼の危機に直面しましたが、大学職員の必死の防火活動により被害を免れました。赤門は昭和6年に国宝に指定され、昭和25年に国の重要文化財に指定されました。明治36年の医学部校舎建設に伴い、赤門が西に約15mほど移動、現在の位置となります。この時に大規模な修繕が施され、袖壁(そでかべ)が、海鼠壁(なまこかべ)となりました。東京大学の赤門は、通用門として現役で使用されており、東京大学の別名としても親しまれています。
唐破風造の離番所(本郷通り側)
唐破風造の離番所(大学側)
北側の袖壁(大学側)の「學」の紋
大棟の「三つ葉葵紋」
軒先の前田家の「梅鉢紋」
巴紋