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 地域資源紹介

東京島酒
東京島酒のロゴ

東京島酒(焼酎)

■指定されている場所:大島町、新島村、三宅村、八丈町、利島村、神津島村、御蔵島村、青ヶ島村

江戸時代、伊豆諸島では庶民が米を食することはめったになく、貴重な米を酒のために使ってはならぬと、神事や祝儀目的以外の酒造が禁じられていました。そのような状況の下へ、1853年、回漕問屋を営み島津藩御用商人を勤めていた丹宗庄右衛門(たんそうしょうえもん)が、密貿易をしていると密告されて八丈島に島流しとなりました。当時、薩摩藩は500万両もの多額の負債を抱えて破綻寸前の状態でしたが、財政再建の方策の一つとして、琉球を介した清との密貿易を行っていました。密貿易の実行を指揮していた庄右衛門は、罪を一人で引き受けたのでした。
焼酎の本場で育った庄右衛門は、八丈島に着くと、島では日本酒を造ることができず、飲んでも酔えないような黒いどぶろく(実は密造していた)しかない様子を見兼ねて、故郷から蒸留器や焼酎造りに適したサツマイモの苗を取り寄せ、島民に焼酎造りを伝授しました。島の人々は庄右衛門に感謝し、『さつまじい』と呼んで慕ったと伝えられています。その後、丹宗庄右衛門は明治元年に恩赦となり、15年ぶりに鹿児島に帰ることができました(庄右衛門に関係した年代や島の滞在年数は伝承によって多少異なります)。
昭和42年、八丈島観光協会と八丈島酒造組合が、丹宗庄右衛門の功績を讃えて八丈島の町役場近くに「島酒之碑」を建立しました。ちなみに、鹿児島県の中俣合名株式会社からは、丹宗庄右衛門を偲んで「薩摩 庄右衛門」という限定酒も発売されています。

こうして始められた焼酎造りが、伊豆諸島の他の島にも伝えられて広まりました。現在、新島をはじめとして大島、利島、神津島、三宅島、御蔵島、八丈島、青ヶ島で焼酎造りが行われています。それぞれ個性的な「島焼酎」の味わいを比較するのも楽しいものです。
鹿児島の焼酎は、米麹(こめこうじ)が主流ですが、米が希少だった伊豆諸島では、米の代わりに麦麹(むぎこうじ)を用いた焼酎造りが特色となり、現在も麦麹によって造られた島焼酎が多くみられます。
当初は、島内の農家が育てたサツマイモを、焼酎造りに用いていましたが、昭和初期頃から、観葉植物を栽培する農家が増え始め、原料の芋が確保しにくくなりました。そのため、伊豆諸島のそれぞれの蔵元でも麦焼酎を導入し始め、現在では、麦焼酎、芋と麦のブレンド焼酎、芋焼酎の3種類が造られていて、島焼酎の味にさらなる多様性をもたらしています。

伊豆諸島には、人口と比べて数多くの蔵元が存在しています。

地 域 企業名等 代表銘柄
大島町 有限会社谷口酒造 御神火
新島村 株式会社宮原 嶋自慢
神津島村 神津島酒造株式会社 盛若
三宅村 三宅島酒造株式会社 雄山一
八丈町 樫立酒造株式会社 島の華
八丈町 坂下酒造有限会社 黒潮
八丈町 八丈興発株式会社 情け嶋
八丈町 八丈島酒造合名会社 島流し
青ヶ島村 青ヶ島酒造合資会社 青酎

また小笠原村には、焼酎ではありませんが、蒸留酒の一種・ラム酒を醸造している「小笠原ラム・リキュール株式会社」があります。
これらの蔵元から造られる焼酎の名前には、他にも『八重椿』『黄八丈』『大漁』といった島にゆかりのある特徴的なネーミングがなされています。
これら島酒を造っている蔵元が集まり、「東京七島酒造組合」が造られました。「東京七島酒造組合」のサイトでは、23区内や多摩地域でも島酒が飲める店・買える店が紹介されています。また、この組合のデザインによる「東京島酒」のロゴの垂れ幕が掛っているお店では、これら伊豆諸島の島酒を楽しむことができます。また、竹芝桟橋内にある売店「東京愛らんど」も、これらの蔵元のお酒がずらりと並んで売られています。

東京島酒
醸造中のタンク内の様子

かつては島焼酎はほとんど島内で消費され、本土の市場にあまり出回ることはありませんでした。現在では、ネット通販などにより、以前よりも島焼酎が手に入りやすくなっています。

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