塩天日干し
■指定されている場所:大島町
伊豆大島にとって、塩は昔から特産品であり、非常に大切な役割を果たした資源でした。日本には岩塩層や塩湖がないために、海水の塩分から塩を造ってきました。海に囲まれた伊豆大島なら、海水から塩を造れば楽ではないかと思えるかもしれません。しかし、昔の日本の製塩地帯では、日照時間が長く、海岸近くの砂浜のように広い平坦な場所に塩田を設け、人力による揚浜式(あげはましき)か、潮の干満を利用する入浜式(いりはましき)によって、海水を塩田に導き、天日で濃縮させました。ところが、伊豆大島の海岸沿いには、塩田に適した場所がありません。そこで、江戸時代の伊豆大島では、海水を釜で煮詰めるという最も古くから行われていた方法で作られました。
江戸時代の初期には、伊豆大島の年貢は塩で支払われました。造った塩のほとんどが幕府によって取り立てられたため、島民は常に塩不足という状態でした。その塩を大切に使うことから、「くさや」の製法が編み出されています(「東京のくさや」の項目を参照)。
江戸時代、伊豆大島の元村(現在の元町)と岡田の2村は、漁業権や廻船株取得権を持っていて船を持つことを許されていました。そのため「浦方」と呼ばれました。一方、野増、差木地、泉津の3村は、山で薪(たきぎ)を集め、薪を燃やして海水を釜で煮詰めて塩を生産するのを受け持ったため「釜方」と呼ばれました。ところが、年貢を納めるため大量の塩を造ることは、極めて過酷な労働を釜方の村民に強いました。そこで、釜方の3村は幕府に対して救済を求め、1690年以降、年貢は塩ではなく金納になりました。比較的すぐに金納が認められた背景には、当時、関西からの塩が大量に江戸に入り塩の価格が下落したことが関係していたと見られます。釜方の村では、製塩のために伐採していた薪を、今度は商品として江戸で売り、その売上げで年貢を納めました。こうして、伊豆大島の産業は塩から薪の生産へと移行し、大規模な製塩は途絶えました。
明治38年、増大する日露戦争の軍費を調達するため、政府は塩を専売制に変えました。そのため、生産性の低い塩田が数多く廃止されてしまいました。やがて大蔵省専売局の主導で製塩の品質向上、製塩施設の近代化・大規模化がなされ、昭和初期には塩の生産量は大きく増加します。戦後、製塩事業は専売局から日本専売公社に引き継がれました。
昭和40年代、製塩において大きな技術革新となる「イオン交換膜法」が実用化されました。この方法は天候にも左右されず広大な塩田が不要となりました。そのため、昭和46年に施行された「塩業近代化臨時措置法」で、伝統的な塩田が全廃されました。
その頃、イオン交換式製塩法による塩では、にがりと呼ばれる塩化マグネシウムを含まず、純度の高い塩化ナトリウムの「化学塩」だけになることを危惧した市民によって「自然塩復活運動」が始まりました。その一環として、昭和51年、伊豆大島でも「日本食用塩研究会」が製塩試験場を開設しました。平成9年には塩専売法が廃止され、製塩は自由化に伴い、全国で揚浜式などの昔の製法を用いた自然塩造りが始まりましたが、伊豆大島での製塩はそのさきがけとなりました。
現在、伊豆大島では「海の精株式会社」「深層海塩株式会社」「OHSHIMA OCEAN SALT有限会社」の三つの塩事業者があります。
「海の精」ではネット架流下式塩田で鹹水(かんすい)を造り、平釜で煮て濃縮する方法や、別の方法では、鹹水を温室式結晶箱で乾燥させて塩を結晶させています。
「深層海塩」では、地下三百メートルより汲み上げた深層地下海水を用い、濃縮棟で約3日間噴霧して水分を循環蒸発させて鹹水をつくり、釜で煮つめ、採塩槽で冷まします。
「OHSHIMA OCEAN SALT」では、地下二百数十メートルから汲み上げた深層海水を、塩ドーム(ドーム型噴霧式海水濃縮装置)の中で乾燥させて鹹水をつくり、濃縮槽に入れてさらに濃度を上げ、結晶釜で熱を加えてゆっくり結晶化させます。
釜あげ
伊豆大島では、伝統と新しい技術を融合させ、それぞれ工夫をこらした製法が行われています。伊豆大島の塩は、食卓を豊かにするだけでなく、伊豆大島のくさやや大島バターなど特産品の中でも活用されています。
ネット塩田
釜あげ